序章 NAM1990
2時間ほど前から敵の抵抗が弱くなってきた。近衛師団第二大隊第四中隊を指揮する屠神 誠中尉は、今までの戦闘状況を元にして現状への新たな分析を試みる。屠神は銃撃で半壊しかかっている机の上に広げた地図を見ながら、書き込まれた様々な情報を目で追った。
先月、ダナン南方70キロ、バタンガン半島において2個連隊(約2千5百名)NVA部隊(北ベトナム軍)を発見した。日本海軍陸戦隊は、半島に上陸し、半島の付け根に位置するケァンガイ市に駐屯する南ベトナム政府軍が布陣すれば、NVAを一網打尽にできると考えた。(ホイアンにいる日本陸軍1個連隊もこの作戦に協力することになっている)海軍陸戦隊2千5百名は6隻の揚陸艦に乗船、翌日の朝に上陸を開始、海岸には南ベトナム政府軍と日本陸軍は幅10キロに渡って展開し、10日かかって海岸保を確保。続いて74式主力戦車と50両のアムトラック(水陸両用装甲兵員車)も上陸、内陸に向かって前進。奇襲を受けたNVAは驚いて内陸部へ逃げ込もうとしている。
この奇襲に連動して様々な作戦が行われている。屠神達は、NVAの退路にある補給基地の制圧を目的としたヘリボーン作戦を行ったのだ。
敵の圧力が弱まってきている。敵は我々を撃退するのを諦めたのか?敵の意図を確かめるにはどうするべきか。屠神はそれを考えた。脳内で幾つかの異なる思考を行い、やがて結論に到達する。
「野長少尉。予備隊はどれだけ残っている。」
屠神は、通信兵に尋ねた。
「2個小隊あります。」
先ほどの戦闘で負傷した右腕を吊った通信兵が答えた。
「わかった。」
屠神は、傍らにある。自分の82式小銃を掴み、予備弾倉、手榴弾、拳銃、銃剣等々があるかを確かめ、最後に45式軍刀を腰に差す。
「俺は、予備のうち1個小隊を率いて威力偵察に出る。あんたは、ここに残って現状維持に努めてくれ、もしかしたらNVAは包囲されるのを恐れて撤退しようとしているのかもしれない。」
通信兵は頷いて、「地上部隊の侵攻から、5時間以上は経っていますから・・・可能性はありますね。了解しました。」
屠神は、指揮所の外に出ると、そこに待機していた将校に声をかけた。
「友永さん、まともな装備は、残っているか。」
「和式弾(対戦車ロケット弾)が4基、擲弾(グレネード)が15発くらい。」
顔中を煤と血で汚している少尉は答えた。屠神は、口元に笑みを浮かべていった。
「それだけあれば充分だな。俺と一緒にハイキングにでも行かないか、もちろん友永さんの部下もつれて。」
「ハイキングですか?もちろん同行させていただきますよ。屠神中隊長殿。」
少尉は、2時間ほど前に戦死した本当の中隊長に代わって、この隊を指揮する少年に汚れきった顔の中異様に白い歯を見せ、
「青春を謳歌する若者を、年寄りが打ち負かす機会を逃しはしませんよ。」
そう言った。階級こそ屠神の方が、友永より上だが、年齢・実戦経験ともに、友永の方が上だった。だから、互いにタメ口を聞いているのだ。
「おもしろい・・・計画を説明する。」
屠神の計画は難しい物ではなかった。ここから南に進み、国道8号線を完全に視界に収め、NVAの動きを確認する。もし、NVAが後退しようとしているなら、国道8号線上に、西に向かう動きが見られるはずだ。
当初、屠神達のハイキングと言うよりマラソンと言った方がいいような前進は、その速度を落とさざる得なくなった。今まで屠神達の前進を助けていた密林が砲撃によって切り開かれていたからだ。
結果、どこからか銃撃されるたびに、屠神達は、砲撃で生じたクレーターの中へ飛び込み、それに対応しなければならなかった。もちろん、高度な訓練と、それ以上の実戦経験を持つ彼らは、そうした障害を速やかに除去していった。しかし、時間のロスは確実に増えていることには、代わりなかった。
それでも、8号線を見渡せそうな、小さな丘を見つけることができた。そして、それに駆け上がろうとした瞬間。銃声、先頭を駆けていた兵士の胸から血と肉片が飛び散るのは、ほとんど同時だった。
「退避!」
屠神は、叫び手近なクレーターに飛び込んだ。彼に続いて友永と数名の部下が飛び込む。彼らは、クレーターの底にへばりつくと、周囲の状況を伺う。
「狙撃兵?」屠神は尋ねた。口調から焦りが感じられる。NVA狙撃兵が死ぬまで其処にいることを知っているからだ。
「たぶん、そうだと思う。」友永が、底にへばりついたまま、答えた。「銃声と弾着が、ほとんど同時だったからそれほど遠くにはいないはずだ。」
「場所はわかるか?いつまでも、ここで遊んでいる暇はない。」
屠神の言葉を聞いて、友永は、何かひらめいた様子を見せた。そして屠神に耳打ちする。
「ヘルメットを、脱いで囮にすれば、奴は絶対射ってくる。それで位置を確認できる筈だ。」
屠神は、友永の満足のいく答えに笑みを浮かべ、
「囮は、俺がやる。友永さんは、奴の位置を確認してくれ。」
そう言って、ヘルメットを脱いで、それを手で持つとクレーターの縁から、わずかに覗かせる。
銃声、クレーターの縁に着弾。屠神はすばやく、ヘルメットを下げ、再びそれをかぶる。
「前方の丘の左側、茂みの中だ。」友永が報告する。屠神は、それを聞いて一瞬考え込み、
「和式弾はあるか?」
そう訪ねた。和式弾とは、第二次世界大戦時、日本が独自に作り上げた携帯式対戦車ロケット弾のことだ。アメリカ風に言うならバズーカ砲がこれに当たる。
「あります。弾は、HE弾でよろしいですか?」
一人の兵士が、太い声で答え、背中に背負っている和式弾を構える。ちなみにHE弾というのは、榴弾のことで対陣地用などに使用する炸裂弾のことだ。
「うまく偽装しているぞ・・・貸せ。俺がやる。」
そう言って友永が、それを受け取る。
「いいのか、中隊長?装甲目標じゃあないぞ。」
友永は和式弾を構えると、屠神に尋ねた。屠神は頷く、
「かまわん、ぶっ放せ。」
彼の命令と同時に、友永が引き金を引く、ロケットの風切り音、もうもうたる白煙がクレーター内にこもる。
しばらくして、爆音が轟く。
「突撃!」
屠神は、立ち上がりながら叫んだ。あちこちのクレーターから兵士達が立ち上がり、丘へと駆けだした。
数分後、丘は、完全に屠神らの物となった。
屠神は、奪取した丘から西方を見おろした。屠神の予測は的中していた。今まで、自分たちに激しい攻撃を加えていたNVAは、内陸へ向けて退却を開始していた。国道8号線の上は、トラックや装甲車で埋まっている。
距離は、丘から5000メートル以上はあるだろう。とうてい、今手持ちの武器では攻撃できない。
どうするべきか、今あれを叩いて後退を妨害できれば、NVA地上部隊に大打撃を加えられる。しかし、今手持ちの武器では攻撃は不可能、だとすれば・・・
屠神の思考は結論を出す。
「無線機を持ってこい。近くの砲兵に連絡を取る。」渡された、無線機で屠神は、前線統制官の呼び出しを行う。
「第二大隊本部、第二大隊本部、こちら第四中隊<モスキート>。8号線上を後退中の大規模な敵車両部隊を発見、阻止攻撃を要請する。」
「本部より<モスキート>。そちらを直接支援することは難しいぞ。」
「<モスキート>より本部。敵は大規模だ。とにかく今から言う場所に火力を叩き込め、後退中のNVAを混乱させられる。」
屠神は、そう叫び、地図を広げ8号線上の座標を読み上げる。
「本部より<モスキート>。わかった、今から君たちを支援できる部隊を探すから、少し待ってくれ。」
それを聞いて屠神は、ゆっくりと視線を8号線へ向けた。口元に苦笑を浮かべる。
・・青春を謳歌する・・・おそらく、内地にいる自分と同じ年齢の16歳と言えば、確かに青春を謳歌しているだろう。そして、俺も、生という物を必要以上に感じながら、青春を噛みしめている。なんら、変わりはないはずだ。そこに生と死が関わっていることを除けば。
屠神の口元に別の笑みが生まれた。殺人鬼が無抵抗な犠牲者に向けて浮かべるそれだ。
・・・大量殺人を合法的に行う16歳の少年、それが今の自分の立場だ。4年前、親父がベトナムの地で死んで、この隊に戦災孤児として拾われた。親父が軍人であったこと。この隊が俺を拾ったとき、特殊な任務に就いていたこと。そして俺が、他人を殺すことのできる人間であったから、後送され、日本本土に帰ることができなかった。そして、俺も帰ることを望まなかった。親父の敵を討つため、それ以上に、自分の生きる場所を探すために、戦っている。そう、今この生活をやめれば、俺は生きる意味をなくすだろう。
この戦いに巻き込まれてしまった以上、結末を自分の目で見るまで、この地で戦わなければ、納得のいく人生が送れない。最近、自分がそう言う人間であることに、俺は気付いた。
我が、大日本に牙を剥く、愚かな畜生どもめ、俺の人生の糧になるがいい。
屠神は、そんなことを考えながらNVA地上部隊を見つめていた。
日本がベトナム戦争に踏み切ったのは、フランスが、ベトナムから手を引いたからであった。最初は、少数の軍事顧問団を送っていたのだが、共産ゲリラが勢力を増すにつれ、南ベトナムを援助しなければ、最終的に東南アジア全体が共産化してしまう。そう考えた日本政府は、南ベトナムに対する武器援助の質と量を拡大していき・・・。
ついに、1980年2月井上総理大臣は、「南ベトナム政府から救援依頼を受けた。」と大義名分を揚げ地上軍の派遣に踏み切った。しかし、本当の日本の思惑は、東南アジアの豊富な資源を赤色、つまり共産党の国々に、横取りされる可能性を恐れていただけであった。
とにかく、ベトナムに巣くう共産党員を撃滅し、東南アジアの権益を守り続けなければならなかった。理由はずいぶん昔の話から始めなければならない。
1930年代、日本で陸軍主導のクーデターが起きた。世に言う二・二六事件である。この二・二六事件は後の日本に、大きな影響を及ぼすことになる。成功したからではない。失敗したからだ。大日本帝国陸軍は大きく縮小され、変わって海軍がこの国の主導権を握ることとなる。親英派の多い海軍は、英国との関係を深め、1935年に第二次日英同盟を締結することに成功。世界恐慌の波は、当時の日本にも襲ってきたが、英国のブロック経済の傘の中にはいることで、この不況に立ち向かった。そのころ、アメリカ合衆国では、ルーズベルトが落選、ウィルキー政権が台頭し、モンロー主義と親独の道を進むことになった。
そして、1937年ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦の始まりであった。当然、親独政権のアメリカ合衆国は、ドイツに対する物資的な援助を行った。しかし、あくまでアメリカ合衆国はモンロー主義を貫いたため、戦いは、ドイツ・欧州連合軍と英日列島垂軸軍の戦いだった。
激しい戦いの末、1951年4月。ベルリン国会議事堂に、ユニオンジャックと旭日旗が揚げられることとなった。
ただ驚くべき事は、当時のドイツはインド・アフリカ戦線で日本軍に、完全撃破されアフリカの利権は失っていたが、フランスのほぼ全土とロシアの大半を占領していたのである。
総統官邸で、空中戦艦(戦略爆撃機の日本の呼称)富嶽の投下した、5トン対要塞徹甲爆弾の直撃を受け、暗殺(?)されたヒトラーの跡を継いだ、デーニッツは、ハンブルグに入港した、当時聯合艦隊(GF)旗艦、戦艦 駿河のデッキで降伏文章に調印(ロシアやフランスといった国をどうやって復興させるのかという問題は別として)第二次世界大戦はここに終結した。
アメリカ合衆国は、この戦いに何の関与もしなかった。いや、合衆国は、戦争に関与しないことで、ヒトラーを援助していたと考える方が妥当だろう。
アメリカ合衆国大統領ウィルキーは、モンロー主義を徹底することで、日英と戦っていたのだとすれば、当然、大戦終了後に新たな世界の支配者となった日英と合衆国の関係が悪化したのも無理はなかった。
つまり、ベトナム戦争は、アメリカ合衆国との戦力バランスを得るための戦いなのである。
ただ、日本はこのベトナム戦争を少々本気になって戦っていた。
屠神にとって永遠とも思える数分が過ぎ、通信が再開された。
「<モスキート>、そちらを直接支援できる奴が見つかった。通信チャンネルを合わせろ。」
屠神は、前線統制官に教えられた周波数にダイヤルをあわせた。
とたんに、明るい声が飛び込む。
「<ディープ・ブルー>より<チャイルド>。こちらは、いつでも砲撃できるぞ。」
「砲撃だと?おまえらは、いったい何処にいるんだ?」
屠神は、驚いた声で訪ね返した。
「そいつは、軍機という奴だ。」声は答えた。
「座標に変更はないな?」
「変更はない。」
「了解。砲撃を開始する。」
何処から、砲声が響いてくるか。そう思って、屠神は耳を澄ませた。数分待っても、何も聞こえない。しびれを切らした屠神は、送受話器を掴み、
「おい!いつになったら・・・」
「弾着まで、あと5秒。」
事務的な声が返ってきた。
「4・3・2・弾着、今。」
太い道路の脇に、途方もなく巨大な爆発が、発生した。野砲や瑠弾砲、加農砲と言った陸軍の大砲がもたらす破壊とは、桁違いの破壊力だ。しかも同時に10発。
閃光、轟音と共に、地面は抉り取られ、衝撃波が竜巻のように、NVA車両をまとめて吹き飛ばす。一瞬にしてNVAは大混乱に陥った。
再び爆発が生じた。今度は、連続して16発、もはや8号線は爆煙に隠れ丘から状況を確認することができない。
「駿河だ。」呆然となって、その光景を見つめる屠神の横で、友永が呻く様に言った。
「聯合艦隊は、あんな物まで戦争に持ち込んだのか?」
「スルガ?あの戦艦 駿河か?」
屠神は尋ねた。名前だけは知っているが、どのような物かは、よく知らなかった。
「56センチ砲戦艦 駿河、元聯合艦隊の旗艦だよ。ドイツ不沈戦艦フリードリッヒ・デァ・グロッセを一撃で轟沈させた、戦艦の化け物だ。今は、水上砲戦艦隊の旗艦だから、他に46センチ砲戦艦 大和に36センチ砲航空戦艦 伊勢もいるはずだ。連中の射程は、ロケット推進弾を使えば、100キロ以上だし、駿河の56センチ砲なら通常弾でも60キロは、あるはずだ。」
少し熱に浮かされたような口調で友永は答えた。
「なるほど。」屠神は、面白そうに頷いた。
8号線にかかっていた爆煙も、ようやく薄らぎ、かつて8号線と呼ばれていた場所が見えてきた。そこは、まるで竜巻と山火事が同時に起こったが如く、ただの荒野になっていた。
たった数秒の砲撃で、NVA車両部隊は、壊滅どころか、全滅してしまったのである。すさまじい破壊力だ。
その光景を見つめていた屠神は言った。
「そろそろ、引き上げることにするか。ここにはもう用はない。」
「了解、俺もそう思うぞ。」
屠神は、その旨を通信すると、一方的な殺戮が展開された場所から離れた。
すでに、この戦争は終わったな。屠神は作戦が成功したことに、妙な高揚感を覚える頭とは、別の所で考えた。水上砲戦艦隊が来たって事は、ようやく日本政府も、本気でベトナムを叩くつもりになったのだろう。後は、圧倒的物量作戦で、相手を揉み潰せばいい。ひょっとしたら、日本政府は第一機動艦隊も投入したかもしれない。とすれば、ベトナムが第二のドイツ(完全焦土化するという意味)になるのも時間の問題か。
屠神の考えは、現実とそう遠くはなかった。
彼女は、歩いていた。どこかは、わからない、鬱蒼と木々が生い茂る森の中、ひたすら目的もなく。それどころか、なぜ自分がこんな所にいるのかさえ、わからず。彼女は、この時点で夢であることに気付けるはずだったが、現状の異様さにそれを明確にすることを拒否していた。ともかく異様な光景だった。一度も見たことのない、それどころか彼女の住む日本という名の島国には、絶対にない(彼女の知る限りだが)光景である。ジャングルとか密林、そう呼ばれる場所である。
鬱蒼と茂る木々の中、彼女は何の苦もなく。そして、当然のように歩いていた。薄暗い密林の中をひたすら。
突然、視界が開け、急に明るくなった。木々が切り開かれ、あちこちに壊れた人形のような物が、転がっていた。赤いインクをぶちまけられた、壊れた人形のような物、それが、何であるかは明確であった。彼女自身それが何であるかわかっていた。だが、それでも彼女は、その光景を冷めた視線で見つめながら歩き続けた。
ふと、彼女の足が止まった。なぜ止まったのか、彼女自身わからない。そして、視線を足下に向けた。死体があった、血塗れの。ようやく、彼女は物を知覚した。知った顔だ。いや、正確には知るはずはない顔だが、彼女はその顔に知った顔の面影を見た。
「・・お・・兄ちゃん。」
彼女はそう言った。別に血の繋がりはなかったが、かつてその顔に対して使った呼び名だった。彼女は、その顔を見ているうちに、悲しくなった。そして恐くなった。ありとあらゆる感情が表に現れた。
「誠・・・お兄ちゃん。」
もう一度呼ぶ、返事はなかった。
「・・・誠お兄ちゃん。」
もう一度同じ事を繰り返す。今度は、返事をしてくれるかもしれないという、淡い望みから、当然返事は、返ってこない。
そして、今まで彼女の中でくすぶり続けていた感情が一気に燃え上がった。
「いやぁぁぁぁ!」
切羽詰まった悲鳴とともに、少女は跳ね起きた。
自室のベットの上。カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込み、窓の向こうから雀達のさえずりが聞こえてくる。
「・・・・・あれ?」
急激な情景の変化に思考が追いつかず、呆然とする。
・・夢か・・・
やっと、追いついた思考が、結論を出した。今まで、自分を苦しめていた物が夢であると築いた少女−霧島良香は、深いため息を付いた。
ようやく、今年で16歳の誕生日を迎えた高校一年生の良香は、額の汗を手で拭う。悪夢から目覚めたばかりで、顔は青ざめていた。
誠お兄ちゃん、確か近所に住んでいた、2つ年上の男の子だ。私が5歳の時、彼は引っ越した。今でも、その時のことは覚えている。ただ、誠お兄ちゃんといつ、どの様にして出会ったか、全く覚えていない。気付いたら、一緒に遊んでいた。そんな感じだ。
私の父親と誠お兄ちゃんの父親は、日本陸軍学校の同期だったらしい。私の父親は砲兵科に、誠お兄ちゃんの父親は航空科に進んだのだが、なぜか馬が合うらしく、家が近所と言うこともあって家族ぐるみの付き合いが続いていた。
ただ、誠お兄ちゃんの母親は、すでに離婚していて、私は見たことがなかった。
おまけに、私の父親もそうだが、誠お兄ちゃんの父親は、軍人という仕事がら、家を空けることが多く、誠お兄ちゃんは私の家に半分居候のような形で生活していた。
そして、私が5歳の秋・・突然、家を引っ越すという事を、本人の口から聞いたのだ。
「引っ越し?何処に?」
私は、今までの生活が永遠に続くと思っていただけに、驚きは隠せなかった。
「ホイアンって言うところ。」
「そこって遠いの?」
「よくわからない。でも遠いと思う。電車じゃないといけない所かもしれない。」
電車でなければ行けない、当時の私にとって想像を絶する遠さだ。ただ、ホイアンは、私の想像すら上回る場所にあることを、後々気付くことる。
「きっと、帰ってくるから。」
誠お兄ちゃんは、そう言ってくれた。
でも、帰ってこなかった。引っ越しをして3日経っても、1週間経っても、1カ月経っても。
そして、1年が過ぎたある日、ようやく私は知った。ホイアンという場所は、この日本という国にないことを、ホイアンはベトナムの都市である事を、たまたま見ていたテレビによって知らされた。
その日は、一日中泣いていたのを覚えている。誠お兄ちゃんには、おそらく二度と会えないだろうと言うことを悟って。
良香は、昔のことを、つらつらと思いだし、再び深いため息をついた。
何で、今になってあんな夢・・・
確かに、今思えば誠お兄ちゃんに対して、自分が特別な感情を抱いていたのは否定できない。初恋の相手、と言ってもいいだろう。だが、10年も前の話である。
・・・そうか、ベトナム戦争が終わったんだ。
たしか、日本政府がベトナムから撤兵の方針を発表したのは、先月くらいだった。誠お兄ちゃんが、ホイアンに行ったのは、誠お兄ちゃんの父親が、軍事顧問団としてベトナムに出兵が、命じられたからだ。
戦争が終わった。と言うことは、誠お兄ちゃんが帰ってくるかもしれない。そんな淡い期待があったのだろう。しかし、見た夢がよりによってあんな夢とは、
・・・よく考えたら、父さんもベトナムにいるんだ。
良香の父も、ベトナム戦争に出兵していた。だが、良香の父は、残務整理要員として現地に後2・3年残ることを手紙で伝えられていた。
良香は、ぼんやりとそんなことを考えていたが、やがてあることに気付き、枕元の時計を見た。
「うぞっ!」
時計の針は、すでに7時半を過ぎていた。
「あぁーっ!感傷に浸ってる場合じゃなかった。」
何とも情けない悲鳴を上げながら、ベットから跳ね起きた。二階の奥にある自分の部屋から、飛び出して一気に階段を駆け下りる。バタバタとけたたましい音をあげながら、一階の洗面台に走り込む。
途中その音に、キッチンで水仕事をしていた。母の亜紀が振り向き、
「あら、おはよう。」
と、のんびりした口調で、朝の挨拶をしたが、良香はそれに対し、
「何で、起こしてくれなかったのよー。」
と、情けない声で抗議すると、そのまま走り去る。
ほどなくして、水の音とドライヤーの風の音が聞こえてきた。
水仕事を中断した亜紀が、食卓に着かずに、そのまま階段を駆け上る娘に、
「良香。朝御飯は、どうするの?」
さっきの調子で、尋ねた。
「間に合わないから、いい。」
良香はそう答えて、二階の自室に入る。しばらくして、再び二階から降りてきた時には、良香は完全に身支度を整えていた。
紺のブレザーに、紺のスカート、スタンダートなデザインだが、素朴な感じがいい制服だ。
「母さん、弁当は?」
「出来てるわよ。」
「ありがと。」
良香は礼を言って、食卓の上においてある弁当箱を取りそれを、鞄に入れる。
「良姉って、朝から騒がしんだから・・・」
そう言ったのは、良香の慌ただしい様子を横目で見ていた、妹の香織だ。制服姿で、食卓に着き、コーヒー(ただし、大量の砂糖とミルクの入った物)の入ったカップを、両手で持っている。<良姉>とはもちろん良香のことだ。
香織は、この春中学二年になったばかりである。年は14、良香とは、2つしか年が離れてない。
「私は、脳天気なあんたとは違って、悩み多き乙女なのよ。」
良香は、そう反論し、玄関へ駆けて行く。後ろで、香織がまだ何か言っているが無視することにした。
「行ってきまーす。」
派手に戸を閉める音と共に、良香は外に飛び出していく。
第一章 本土
屠神にとって10年ぶりの日本の空気だ。
ベトナムから、ジェット旅客機晴空の乗って成田空港に降り立った屠神にとって内地の空気は、ひどく奇妙な味だった。
しばらく原因が分からず困惑していたが、答えは至って簡単だった。
足りないのだ、ここの空気には血と硝煙の香りが、
「ねぇ、ねぇ。良香、良香。」
教室に入るなり、良香は親友の伊吹雹子に捕まっていた。
「どうしたのよ。ちょっと落ちついて、雹子。」
良香は、鞄の中身を机に入れながら、さっきから、はしゃいでいる雹子を戒める。
「あっ!ごめん、ごめん。」
そう言って、雹子は、はしゃぐのを一時中断する。雹子は、小・中・高と同じ学校に通っている、良香の大親友だ。
「で、何。どうしたの?」
ようやく、鞄の中身を整理した良香が雹子の方を向く、雹子の方は、先ほどより多少落ちついた感じで、ポケットから紙切れを取り出した。
「じゃーーーーーーん!これは、何でしょう?」
「えっ・・・て、それってラブレター?」
良香は、驚きの声を上げる。・・・う〜ん、確かに雹子は、女の私が見ても、かわいい方だと思う(別に変な意味ではない)髪は肩で切りそろえ、やや童顔で、身長も真ん中より少し低め、確かに年下好みの男子から人気はあった・・・でも、
「でも、今時ラブレターなんて・・・」
そう言って、考え込む良香を見て、雹子はしてやったりという笑みを浮かべ、
「ぶーっ。残念でした。これはラブレターじゃありません。」
「えっ、ちょっとじゃあ何よ。その手紙?」
少し間を空けて、雹子は言う。
「実は、お父さんからの手紙なのだ。」
「お・・お父さんって。雹子、あんたねー・・」
そう良香が言うと、雹子はうつむき、
「そんなこと言っても、10年近く帰ってないんだから・・・」
「あっ・・・」
そうである。雹子の父親も軍人で、10年前にベトナムに出兵したままである。おまけに、戦争が激化するにつれて連絡もとどこうり・・・ついには、手紙一つ来なくなったのだ。
「そうだったんだよね。ごめん。」
「ううん、いいよ別に、私の聞き方もまずかったし。」
雹子はうつむいたまま、首を振る。