金光教鹿野上教会


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〜初代の歩み〜
金光教鹿野上教会が設立するまで…


鹿野上教会は、大正十五年五月十五日に、岡成敏雄がこの鹿野の地に布教に来たことに始まります。 初代(岡成敏雄)は、明治三十八年一月一日、須金(現周南市須万)の農家、岡成勝蔵・コト夫妻の四男として生まれました。七人兄弟で、長女のツル(松岡家に嫁ぐ)以外の六人は男の子でした。

家族の死と自身の死に直面して
明治四十三年、初代の母コトは、六男末一を出産後の患いで亡くなり、次に末一、五男武雄が四歳で夭逝しました。
初代は、母や兄弟を失った悲しみを抱えながらも成長し、須金の小学校尋常科、高等科を経て、須金村実業補修学校本科に入学します。 ところが、その在学中、肺結核を患い、ついには医者からさじを投げられました。


金光教との出会い
そんな中、姉の松岡ツルは弟である初代を連れて、大正九年二月、初代(十六歳)とツル(二十六歳)は金光教波野教会に参拝しました。 この年、大正九年七月には、またも三男舜一が十九歳で亡くなりました。 初代は、須金の自宅から約二十キロ離れた波野教会に参拝を重ねました。そして、藤田又治郎師のご祈念、お取次を通して、肺結核全快のおかげを頂きました。 その一方で、大正十二年に、父勝蔵が、大正十四年には二男正一が亡くなりました。つまり、初代は、二十歳の年に、姉と一番上の兄を残して、両親、四人の兄を失ったのです。 初代は、自身の大患平癒のありがたさと、父や兄たちを失った悲しみの中にも、一層信心を求め、何としても天地の親神様のご用に使ってもらいたい、との願いを立て、大正十四年五月に金光教講義講究所(現在の学院)別科に入学、同年十月に卒業。卒業後も、波野教会で修行に励みました。 折しも、鹿野の地から波野教会に参拝していた西林善作、藤原初右衛門、田畑泰吉の三氏から「是非とも鹿野の地へ金光教教師を差し向けてほしい」という願い出があり、初代は、師匠・藤田又治郎師の願いを受けて、新たな土地に金光大神の道を開かせてもらいたいと覚悟を決めて、この鹿野の地に足を踏み入れました。 これが大正十五年五月十五日のことで、初代、二十二歳の時でした。
布教当初の苦労は、大変なものであったと想像されますが、翌年(昭和二年)には、早くも借家をお広前にして、教会としての永続の目処が立ったということで、金光教鹿野上教会設立の出願がなされ、同年十一月十二日、山口県の認可が下がりました。これが、公的な鹿野上教会の開設であります。
金光教鹿野上教会