喜右衛門の挑戦
奉行所はついに、この大事業を喜右衛門に託すことにしました。喜右衛門は一切を自費で行うことを奉行所に伝え、これを引き受けました。
年が改まった寛政11年(1799)1月17日から、喜右衛門は事前に練り上げた計画に沿って、引き揚げの準備を始めました。
沈没したオランダ船の船腹には大綱が巻きつけられ、周りの海中には大柱22本が立てられました。船を引き揚げる綱に取り付けられた滑車は、大小900にも及びました。
2月1日から、いよいよ引き揚げ作業が開始され、エリザ号の周りを喜右衛門の持ち船「西漁丸」と綱を引く小船など約150艘で取り囲み、船の浮きやすい満潮の時を待ちました。満潮と同時に滑車の付けられた綱が引かれると、エリザ号はゆっくりと浮上し、船底は海底を離れました。
作業が始まって3日目のこと、沖からにわかに強い風が吹いたといいます。喜右衛門は、エリザ号を引く小船に一斉に帆を張らせ、一気に風の力で修理場所の浜まで曳航し、ついにエリザ号の引き揚げに成功したのでした。
内外からの賞賛
引き揚げの成功に、奉行所をはじめ関係者は大いに喜び、特に、積荷だけでもと願っていたオランダ人は、あきらめていた船まで戻ってきたことに「手の舞い足の踏む所を忘れて」喜んだと伝えられています。
冬の海という悪い条件にもかかわらず、卓越した技術と延べ1万3000人ともいわれる大勢の人夫をまとめ引き揚げを成功させた喜右衛門に対し、長崎奉行は銀30枚を贈りその功績をたたえました。また、櫛ケ浜に帰った喜右衛門には、毛利藩主から名字を名のることと刀を差すことが許されました。
オランダ船引き揚げのニュースは国内外で大きく紹介されました。引き揚げの年の夏に『蛮喜和合楽』と題する書物が出版され、喜右衛門が行った引き揚げの様子が、絵入りで詳しく紹介されたほか、長崎オランダ商館長だったヅ−フはその著作『日本回想録』で「特に記憶すべき価値あり」と評し、ホークス編の『ペルリ提督日本遠征記』でも話題になるなど、喜右衛門の偉業は国内はもとより世界へと伝えられました。
写真=寛政11年に出版された「蛮喜和合楽」には、オランダ船が高鉾島付近で遭難してから、引き揚げ、修理、出港までの様子が克明に描かれた絵図がおさめられています。左下の香焼島に喜右衛門の漁場があったことがわかります。
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