早田俊幸選手、特集 (2003年7月作成)
画像は1996年中国・山口駅伝4区より

早田俊幸選手
1968年5月2日生まれ(177cm、60Kg、A型)87年に県立岐阜商業高から鐘紡入り
岐阜陸協、アラコ、熊本陸協、ユニクロを経て2000年5月から本田技研へ
2003年6月30日で実業団選手としての競技を引退し、社業に専念されるとの発表があった。

〜毎日新聞より、早田さんのコメント〜
「故障が完治せず、精神的にも肉体的にも実業団の世界でやるべきではないと感じた
競技生活で学んだことを生かして仕事で頑張りたい」


早田俊幸選手
早田選手記録集

早田俊幸選手
自己最高記録
早田俊幸選手
自己最高記録
種目 記録 所属 日時
3000m 7分53秒22 鐘紡 1991・7・15
5000m 13分30秒11 岐阜陸協 1997・5・10
10000m 27分53秒12 鐘紡 1995・8・8
ハーフマラソン 1時間00分42秒 鐘紡 1996・1・21
30km 1時間29分28秒 鐘紡 1993・2・28
マラソン 2時間08分07秒 アラコ 1997・12・7

陸上競技マガジン参照
早田俊幸個人10傑
5000m自己10傑
1 13分30秒11 1997 GP大阪
2 13分34秒8 1990 世界標準防府
3 13分35秒71 1996 GP大阪
4 13分40秒10 1995 ワールドゲーム
5 13分42秒07 1994 日本選手権
6 13分42秒25 1993 ヌルミヤビ
7 13分42秒42 1993 インゴルスタット
8 13分43秒15 1999 静岡国際
9 13分44秒17 1990 オーハス
10 13分44秒58 1995 南部記念
10000m自己10傑
1 27分53秒12 1995 世界選手権
2 27分55秒01 1995 日本選手権
3 28分04秒44 1995 ロンドン
4 28分05秒95 1997 兵庫リレー
5 28分06秒22 1996 兵庫リレー
6 28分11秒28 1994 兵庫リレー
7 28分12秒77 1995 世界選手権
8 28分13秒14 1999 兵庫リレー
9 28分13秒7 1995 東京記録会
10 28分16秒00 2000 八王子記録会
マラソン自己10傑
1 2時間08分07秒 1997 福岡
2 2時間10分19秒 1994 東京
3 2時間10分37秒 1992 東京
4 2時間10分38秒 1999 福岡
5 2時間11分04秒 1993 福岡
6 2時間11分57秒 1994 アジア大会
7 2時間12分01秒 1998 福岡
8 2時間12分14秒 2000 びわ湖
9 2時間15分16秒 1993 ロッテルダム
10 2時間18分27秒 1995 福岡
ハーフマラソン自己10傑
1 1時間00分42秒 東京シティーハーフ 東京 1996年1月21日
2 1時間01分29秒 京都シティーハーフ 京都 1999年3月14日
3 1時間01分34秒 全日本実業団ハーフ 山口 1994年3月21日
4 1時間01分57秒 東京シティーハーフ 東京 2000年1月10日
5 1時間02分05秒 世界ハーフ選手権 スペイン 1996年9月29日
6 1時間02分28秒 京都シティーハーフ 京都 1998年3月8日
7 1時間02分31秒 札幌国際ハーフ 札幌 1996年7月7日
8 1時間02分35秒 札幌国際ハーフ 札幌 1999年7月18日
8 1時間02分35秒 世界ハーフ選手権 イタリア 1999年10月3日
10
1時間02分47秒 網走ハーフ 網走 1992年8月2日

早田選手についてのコラム

1988年

早田俊幸選手
1988年12月18日
国際千葉駅伝1区
鮮烈!早田俊幸選手、全国デビュー!


1 1時間59分41秒 エチオピア
2 2時間00分14秒 オーストラリア
3 2時間00分17秒 日本
4 2時間00分41秒 ケニア
5 2時間02分14秒 メキシコ
6 2時間02分34秒 タンザニア

1区早田俊幸(10Km)27分56秒
2区綾部健二(5Km)13分55秒
3区新宅永灯至(10Km)28分41秒
4区若倉和也(5Km)14分21秒
5区瀬古利彦(12.195Km)35分24秒

1988年12月18日、瀬古利彦選手の現役引退レースとなった「88・国際千葉駅伝」が42.195Km・5区間で行われました。当時社会人2年目、20歳の早田選手は1区に大抜擢され周囲からは、「瀬古引退の大舞台に、無名の新人に1区10kmを任せるのは大丈夫か?」という声さえあったようです・・・しかし・・・

以下「1989年2月号陸上競技マガジン」特集記事、一部抜粋(渡辺勇一氏記事)
前略・・・恐れを知らぬ若者は無謀ともいえるスピードで突っ走った。5Km通過が(13分40秒)、エチオピア、ケニア、との首位争いを譲らない。10Kmを(27分56秒)、3位発進で重責を果たしたのだ。「時計が壊れているのかと思った。」ほどのハイペース。1万mのトラックで(29分21秒99)、10Kmロードで(28分49秒)のベストタイムしか持たぬ走者がこれほどの好記録で走り終えた。鮮烈な印象を与えたに違いない。・・・後略


・・・ということで大器・早田俊幸選手は瀬古利彦選手の引退レースで鮮烈な全国デビューを飾られました。これほどインパクトのある登場は意図的に用意しても成るかどうかですよね・・・「早田俊幸」「早い(速い)」の「早」、「俊足」の「俊」の2文字を持つ漫画の主人公のような設定の美青年が世界を相手にさっそうと「走る」わけですから、全国の早田ファンが急増し一身に期待を集めたのは言うまでもありませんね。「ハヤターー、ガンバレッ!」、全国の沿道で叫ばれ始めました。

2003年8月5日 ろっく
1994年

早田俊幸選手
1994年2月13日
東京国際マラソン
自己新記録で3位、アジア大会代表へ


1  2時間08分55秒 S・モネゲッティ(豪州)
2  2時間09分08秒 V・ルソー(ベルギー)
3  2時間10分19秒 早田俊幸(鐘紡)
4  2時間11分10秒 実井謙二郎(MDI)
5  2時間12分13秒 M・アベベ(エチオピア)
6  2時間12分54秒 白 承道(韓国)
7  2時間12分57秒 K・ドブラー(ドイツ)
8  2時間13分27秒 鈴木尚人(本田技研)
9  2時間15分16秒 徳永大輔(鐘紡)
10 2時間15分20秒 S・グルニー(ポーランド)

早田俊幸選手、3位スプリットタイム
5k           (14分56秒)
10k(30分04秒)   (15分08秒)
15k(45分17秒)   (15分13秒)
20k(1時間00分20秒)(15分02秒)
中間点(1時間03分35秒)
25k(1時間15分16秒)(14分56秒)
30k(1時間30分25秒)(15分09秒)
35k(1時間45分52秒)(15分27秒)
40k(2時間02分33秒)(16分41秒)
ゴール(2時間10分19秒)(7分46秒)
後半(1時間06分44秒)


94年広島アジア大会選考会の94年東京国際マラソンです。前日には大雪が降り、大会関係者の方が徹夜の除雪作業でコース上の雪を取り除き無事に開催されました。「東京最大の難所」を制したS・モネゲッティ(豪州)が(2時間08分55秒)の94年世界ランキング14位のタイムで優勝。早田選手は22キロ地点と勝負するにはかなり早い地点からのスパートを決行され、終盤力尽きて外国の2選手に先行されました。しかしレースの主導権自体を早田選手が操っていたという印象を受けました。スプリットタイムを記載してみましたが20キロから35キロまでの間は独走でのラップタイムです。逆転を許した終盤のスプリットは厳しい坂も手伝って失速されていますが、専門誌、新聞、テレビでも早田選手の果敢なレース展開を好意的に捕らえ、将来に2時間6分台の世界最高記録も見据えた表現が数多く掲載されていました。

早田選手の(2時間10分19秒)は94年世界ランキング28位です。94年日本ランキングでみるとこの記録がランキング1位でアジア大会代表も確定しましたし、直後3月の94年全日本実業団ハーフマラソン(1時間01分34秒)の日本最高記録で優勝されアジア大会に向けて弾みをつけられました。アジア大会本番でもバルセロナ五輪金メダリスト、韓国の黄永祚選手に敗れはしましたが見事銀メダルを獲得されるなど充実したシーズンであったといえます。ただマラソンに関してはこのときの記録がアラコに移籍後の97年福岡国際の大記録まで破られることはありませんでした。アトランタ五輪選考大会では結果を出せなかったのは早田選手にとってあまりにもショックが大きかったことと推測されます。

これはまた別の機会に特集すべきかもしれませんが、早田選手の記録で「日本ランキング1位」に関して考察しますと90年に5000m(13分34秒8)でランキング1位、94年にハーフマラソン(1時間01分34秒)とマラソン(2時間10分19秒)でランキング1位、97年はマラソン(2時間08分07秒)でランキング1位です。95年に10000mでランキング2位があります、このとき渡辺康幸選手の学生記録(27分48秒55)が1位ですが日本選手権、世界選手権の両決勝ではいずれも早田選手が僅差で先着されています。レコードッブックで「早田俊幸」選手の活躍をみていますと5000m、10000m、21.0975km、42.195Km、と満遍なく活躍されていますし、各大会の大会記録、さらに駅伝での大活躍&区間記録など集計しようと考えるだけでちょっと気が遠くなります。

2003年8月14日 ろっく

早田俊幸選手
1994年3月21日
全日本実業団ハーフマラソン
早田俊幸選手 日本最高記録で優勝


1  1時間01分34秒 早田俊幸(鐘紡)=日本最高
2  1時間02分06秒 藤野圭太(九電工)
3  1時間02分16秒 宮島誠一(本田技研)
4  1時間02分27秒 大賀輝夫(富士通)
5  1時間02分39秒 三潟卓郎(スズキ)
6  1時間02分55秒 服部孝宏(鐘紡)
7  1時間03分08秒 豊岡知博(鐘紡)
8  1時間03分15秒 池田克美(NEC)
9  1時間03分15秒 大崎 栄(旭化成)
10 1時間03分16秒 篠田明広(小森コーポレーション)

早田俊幸選手、日本最高スプリットタイム
5k(14分49秒)-10k(29分18秒)-15k(43分59秒)-20k(58分23秒)

日本最高記録で優勝。14Km過ぎにあっさりと勝負はついたようです。以降・陸マガ参照→「最初から新記録狙い。マラソンをこなしているので距離に不安はなかった。後は自分のスピードで押せ押せでいこうと・・・。勝負に勝ったというより、1度揺さぶったら誰も付いてこなかった」とコメントされています。地元での横綱レースは圧巻でした。

1月はニューイヤー駅伝や朝日駅伝など毎週駅伝大会が開催され、2月に日本ランキング1位の記録で東京国際3位、直後の3月に全日本実業団ハーフを日本最高記録で快勝、4月には下記の兵庫の10000mで高岡選手と1・2位独占されています。早田選手の特徴のひとつに非常にレース数が多いということがあげられます。もちろんタフであるからそれらのレースを好成績で消化していけるのですが、このスタミナというか能力は素晴らしいものがあります。1つのレースだけでも大変な価値があると思うのですが早田選手は次から次に走り抜けていかれました。主な世界大会への出場は95年、97年の世界陸上10000mでしたが早田選手のポテンシャルはどの種目でも世界に通用する力強さを感じてました。

「サングラス」がよく似合う・・・これもまた別の機会に特集すべきかもしれませんが、いまだに「サングラス」に関して言えば僕の中で「NO.1」は「早田俊幸」選手ですね。これは僕の中の「サングラスNO.2」の選手とはマラソンで(10分00秒)くらいの差があります?・・・つまりぶっちぎりでカッコイイということです。←ミーハー(死語?)ですが・・・間違いなく日本の長距離選手に「サングラス」を広めたのは「早田俊幸」選手です。僕も早田選手にあこがれて買いましたから・・・サングラス・・・

2003年8月14日 ろっく

早田俊幸選手
1994年・4月24日
兵庫リレーカーニバル10000m A組


男子10000mA組決勝
1 27分59秒72 高岡寿成(鐘紡)
2 28分11秒28 早田俊幸(鐘紡)
3 28分17秒32 佐保希(旭化成)
4 28分18秒03 渡辺康幸(早大)
5 28分19秒17 宮島誠一(本田技研)
6 28分20秒78 高尾憲司(旭化成)
7 28分20秒78 田尻祐一(クロサキ)
8 28分22秒16 S・マヤカ(山梨学院大)

1994年の兵庫・男子10000mA組、当時、早田選手(25歳)、高岡選手(23歳)、自己新での1、2位独占レースです。「早田・高岡・黄金コンビ」の活躍は幾度とありますが、この「1994年・兵庫10000m」での印象は強烈でした。レース前、27分台突入を計った「鐘紡黄金コンビ」はペースが遅い場合「1000mごと引っ張り合う」よう打ち合わせていたと「陸マガ」に載っていました。つまり走力や状態が充実していた(早田・高岡)両選手は、周囲のライバルよりも(27分台)のゴールタイマーに意識を集中させて走っていたようです、そのことが「黄金コンビ」による夢の競走を演出しました。

(佐保、渡辺、宮島、高尾、田尻、マヤカ)選手といったトラック・駅伝の日本トップ超強豪選手を相手に3000m手前からレースの主導権を握り、6000mでは(早田・高岡)2選手が独走状態を形成!他の選手を完全に置き去りにしたのです。6000mからゴールまで両選手による(27分台)への挑戦が激化・・・打ち合わせどうり1000mごとに先頭を交代して激走、なんとか(28分)に達する前にゴールタイマーを止めねばなりません・・・8800mで(27分台)の可能性を追い高岡選手がスパートを決行、ラスト1000m(2分40秒2)ラスト400m(61秒1)の切れ味を見せた高岡選手は(27分59秒72)の初27分台へ突進ゴール!この頃から「記録男」として秒差の接戦に強いところを垣間見せておられます。

早田選手は高岡選手の最後のスパートには対応できませんでしたが(28分11秒28)のゴール、ご自身の自己記録樹立と同僚の後輩高岡選手の快挙へ十分な援護射撃をされた早田選手・・・このレースの詳細やゴール後に高岡選手と2人で両手を挙げた写真が「陸マガ」に4ページにわたって特集されています、「早田・高岡・黄金コンビ」の「力」が他の選手とは違うところを全国にアピールされました。このレースもまた鐘紡ファンには忘れられない1レースですね。

2003年7月28日 ろっく
1995年

早田俊幸選手

「陸マガ」や「テレビ」で見るあの早田選手(14番)をスタート前に目の前にして見入ってしまった、六郎万選手(11番)
1995年5月6日
山口県選手権10000m


95年、大学4年の僕は就職活動を兼ねて帰省し山口県選手権に出場しました。2週間後には最後の九州インカレで入賞を狙っていましたのでここでよい走りをすることは僕にとって重要だと考えていました。アップをしていると早田選手がJOGしておられました、4月のロッテルダムマラソン、35キロ地点で途中棄権された直後だけに・・・今日はチームメイトの応援を兼ねた練習JOGかな?くらいに思っていましたがスタートラインについてふと横をみると早田選手が立っておられました。

おお!・・出場されるんだ!!と驚愕しました。それでなくても僕以外はすべて実業団選手で学生選手は僕だけという状況に恐怖していましたので、早田選手も出走されるということでさらに緊張が増しました。スタートしたものの実業団選手の中で、僕はどの位置で走ったらよいかわからない上に鐘紡の選手が作り出すハイペースに戸惑っていました・・ということで必然的に集団の最後尾に位置することとなったのですが、そのことが偶然にも早田選手の走りを目の前で見る機会を得たことにつながりました。

スタート直後から飛び出すと思われた早田選手がなんと僕の目の前をリラックスして疾走されているではありませんか!前半は体調を確かめてからレースをしていこうと予定されていたのでしょう。2000mを(5分57秒)で通過された直後に早田選手は一気に先頭に立ち独走状態に入ったと推測されます。残りの8000mを激走され現在2003年も大会記録として残る(29分06秒96)でゴールされました。この1995年にこの種目で日本選手権日本人1位、世界選手権10位と「日本で1位、世界で10位」の大活躍をされました。そんな絶好調時期の早田選手と同一レースを走れたことはランナーとして大変光栄ですし、忘れられない思い出となりました。当然ですが早田選手と同一レースを走ったのはこれが最初で最後です。

僕は2000mを早田選手の真後ろで通過後に3000m(9分05秒)、5000m(15分39秒)で通過し、後半5000m(16分17秒)の(31分57秒56)で10位のゴールでした。当時の自己記録が(31分35秒1)でしたので自己2番目の記録で走れたことになります。実業団のハイペースに混じってある程度走れたことで自信をつけた僕は完全に流れをつかみました。1週間後にポイント練習で弾みをつけ、2週間後の最後の九州インカレ20000mでは5位入賞を果たしたのです。1位東選手、2位から4位まで第一工業大学の選手には敗れましたが、福岡大学、鹿屋体育大学の選手に全勝できたのは、95年山口県選手権で早田選手と走れた感動が僕に勇気を与えてくれたからだと思います。

  
↑上記文の画像です、ちいさな画像をクリックすると大きな画像が見れます。

2003年7月31日 ろっく

早田俊幸選手
1995年6月10日
日本選手権10000m

日本選手権・男子10000m決勝
1 27分26秒26 A・ニジガマ(日清食品)
2 27分55秒01 早田俊幸(鐘紡)
3 27分55秒81 渡辺康幸(早大)
4 27分56秒05 高尾憲司(旭化成)
5 27分57秒02 大崎栄(旭化成)
6 27分59秒80 川内勝弘(エスビー食品)
7 28分03秒77 S・マヤカ(山梨学院大)
8 28分09秒17 小林雅幸(早大)

1995年・・・春のロッテルダムマラソンで途中棄権の悪夢を経験され、少々自信喪失気味だったとはいえ当時27歳の早田選手は脂が乗った充実したシーズンを迎えていました。トラックレースで立て直しを計った早田選手は日本選手権10000mに出場。ハイレベルの展開になったレース、ラストの直線で渡辺選手をかわしてゴール。大学4年で充実を極めていた「歴代学生史上最強のランナー渡辺康幸選手」を抑え堂々の日本人1位。第5回世界選手権代表の切符をトップで獲得されイエテボリ行きを決められました。

このレース、ニジガマ選手はちょっと確認できませんが、2位〜8位までの7選手は全員自己新です、早田、渡辺選手もこのときが初めての27分台レースでした。さらにこの時の記録が現在も自己記録あるいは生涯記録なのは、(高尾、大崎、川内、マヤカ、小林)選手です。収穫が多く、ハイレベルな第5回世界陸上代表選考会であったといえます。選考された(早田・渡辺・高尾)選手は南部記念を経て世界選手権に向かうのです・・・

第5回世界陸上男子10000mへは早田俊幸(鐘紡)、渡辺康幸(早大)、高尾憲司(旭化成)選手が出場。予選1組、早田選手が(28分12秒77)の7位で決勝進出、当時20歳の高尾憲司選手は(28分47秒01)で14位で無念の予選落ち。予選2組には渡辺選手が(27分48秒55)の17年ぶり学生新記録の6位で決勝進出を果たした。決勝は早田選手が(27分53秒12)の自己新記録で10位、渡辺選手が(27分53秒82)で12位と8位の(27分52秒55)のD・ゲッラ選手とは(1秒差)もなく惜しいところで8位入賞を逃したことになります。このイエテボリ大会10000m決勝成績は6位まで大会新記録というハイレベルな上に「役者」が揃っているので思わず一覧表にしましたが、なんといっても日本の早田・渡辺選手の絶好調の走りが印象深いです。

2003年7月23日 ろっく

世界選手権・男子10000m決勝
男子10000m決勝
☆世界記録-26分43秒53
◎大会記録-27分38秒63
1 ◎27分12秒95 H・ゲブルセラシェ エチオピア
2 ◎27分14秒53 K・スカー モロッコ
3 ◎27分14秒70 P・テルガト ケニア
4 ◎27分19秒30 S・ヒスー モロッコ
5 ◎27分23秒72 J・マチュカ ケニア
6 ◎27分30秒02 J・キマニ ケニア
7 27分48秒88 S・フランケ ドイツ
8 27分52秒55 D・ゲッラ ポルトガル
9 27分52秒97 T・ウイリアムス アメリカ
10 27分53秒12 早田俊幸 日本
11 27分53秒42 D・カストロ ポルトガル
12 27分53秒82 渡辺康幸 日本
13 27分55秒34 G・シルバ メキシコ
14 27分56秒06 A・メゼゲブ エチオピア
15 27分57秒92 M・ヌタウリクラ ルワンダ
16 27分59秒38 A・ゴメス スペイン
17 28分00秒08 H・ラマーラ 南アフリカ
18 28分08秒39 S・バルディニ イタリア
19 28分26秒42 A・ピント ポルトガル
途中棄権 A・アントン スペイン
1996年

早田俊幸選手
1996年1月1日
ニューイヤー駅伝、鐘紡18年ぶりの優勝


1996年1月1日 第40回全日本実業団駅伝(群馬県庁前発着・86.3Kmコース)
1位 4時間14分33秒 鐘紡 
2位 4時間14分34秒 旭化成
3位 4時間19分29秒 エスビー食品

鐘紡(4時間14分33秒・優勝)
1区(12.1Km) 中原健雄(34分27秒・区間5位)
2区(8.9Km ) 豊岡知博(24分34秒・区間4位)
3区(13.7Km) 高岡寿成(37分49秒・区間1位)
4区(10.3Km) 長谷川貴司(30分04秒・区間3位)
5区(7.4Km ) 水谷哲也(20分35秒・区間2位)
6区(18.0Km) 早田俊幸(54分53秒・区間1位)
7区(16.4Km) 森宗寛司(52分16秒・区間2位)

1996年1月1日ニューイヤー駅伝最長区間6区で早田選手は5区水谷選手からタスキを受け取ると群馬の強烈な向かい風を受けながら、(12秒)前を行く先頭の旭化成・川嶋伸次選手を追っておられました・・・同時にタスキを受け取ったエスビー食品・小林幹正選手はすかさず早田選手の背後をマーク・・・普通に考えると非常に重苦しく厳しい状況ですが、「ハンター早田選手!本領発揮!」強烈な向かい風を裂き、グイグイと力走を続ける早田選手にエスビー小林選手は全くついていくことはできません・・・さらに3.8Kmで先行する川嶋選手をとらえ、15Kmまでお互いを牽制しながら並走状態・・・優勝を意識するとアンカー・森宗選手に少しでも貯金を与える必要があったためラスト3Kmで執念のスパートを放ち、粘る川嶋選手から(14秒)リードを奪う区間賞の熱走で最長エース区間の役割に応えた「早田俊幸選手」

最終区決戦は、鐘紡アンカー・森宗選手が旭化成アンカー・佐保選手を(1秒)振り切り歓喜のゴールへ!常勝・旭化成をわずか(1秒)かわして優勝を達成した鐘紡・・・ゴール地点の群馬県庁前では伊藤国光監督の胴上げが実現していました。勝因はチーム状態が充実していた事や、エース区間3区・高岡選手、6区・早田選手がそれぞれ区間賞の走りでチームをリードした事、さらに伸び盛りの若手・森宗選手が死力を振り絞って競り合いを制した事、などが挙げられます。旭化成は7区間で区間賞4つ、区間2位を2つ、区間3位1つで優勝を逃したことになります。

鐘紡ファンには忘れられない駅伝の1レースですね、当時の旭化成は手がつけられないほど強かったですから・・・早田選手のこなした駅伝走が「優勝」するためいかに重要だったかわかります。「陸マガ」によると「秒差でつなぎさえすれば、エースの早田や高岡がなんとかしてくれる、という余裕を持った走りができるのが、ここ数年つなぎ区間で好走している要因だろう」と書いてありました。伊藤国光監督の当時の分析も「1区やつなぎ区間はよほどのことがない限り30秒も開きませんよ。そこまで計算すれば優勝は必ず手が届くものだと思っていましたから。」と語っておられます。さらに「トラックの記録ではなく、チームの力で勝ったんだという思いですね。18年ぶりの優勝で、監督をやってて本当によかったと思います。」と喜びを語っておられました。
1996年「鐘紡ニューイヤー制覇」の伝説です。

2003年7月22日 ろっく
1997年

早田俊幸選手
1997年12月7日
福岡国際マラソン
早田俊幸選手、国内日本人最高記録、現役最高記録の日本歴代4位で2位


1 2時間07分28秒 J・チュグワネ(南アフリカ)
2 2時間08分07秒 早田俊幸(アラコ)
3 2時間08分47秒 佐保希(旭化成)
4 2時間10分27秒 A・アントン(スペイン)
5 2時間11分06秒 D・ウイルソン(オーストラリア)
6 2時間11分47秒 C・デティ(ケニア)
7 2時間12分35秒 小島宗幸(旭化成)
8 2時間12分40秒 大川久之(山陽特殊製鋼)
9 2時間14分08秒 J・ケンボイ(ケニア)
10 2時間14分21秒 森川貴生(NKK)

早田俊幸選手、2位スプリットタイム
5k            (14分58秒)
10k(29分51秒)    (14分53秒)
15k(45分01秒)    (15分10秒)
20k(1時間00分12秒)(15分11秒)
中間点(1時間03分33秒)
25k(1時間15分29秒)(15分17秒)
30k(1時間31分03秒)(15分34秒)
35k(1時間46分18秒)(15分15秒)
40k(2時間01分25秒)(15分07秒)
ゴール(2時間08分07秒)(6分42秒)
後半(1時間04分34秒)

日本男子マラソン陣、長らく不毛の時期を過ごしていた。不振をかこつ最大の原因は早田自身にあった。そのトラックでの能力、初マラソンで(2時間10分37秒)で走ったこと。早田は日本男子マラソンのエースとして支えるはずの選手の一番手だった。その期待度ナンバーワンの早田の不振がそのまま日本男子マラソンの不振につながっていた。エース復活、これで日本男子マラソン陣に光明がみえてきた。
↑1998年1月号陸マガ記事より

2003年9月号陸上競技マガジンに早田俊幸選手の引退記事が掲載されていました。ご自身が最も印象深いレースとして、マラソンでの自己最高記録を樹立した「1997年福岡国際マラソン」を挙げておられました。鐘紡から移籍後初のマラソンとして注目を集めていた中で、雨中の快走は見ていた僕も強烈な印象を受けた記憶があります、次の日の新聞、スポーツ新聞は全部買いました。上記にもありますように、トラック、駅伝、初マラソン、どれを挙げてもその走りと結果から、低迷していた「日本男子マラソン」の期待の星として注目を集めていました。

アトランタ五輪金メダリスト、J・チュグワネがM・フィスのもつ(2時間08分05秒)の日本国内最高記録を更新し日本国内で初の2時間7分台のパフォーマンスで優勝。早田選手も中山竹通選手のもつ(2時間08分15秒)を12年ぶりに更新する日本人国内最高記録で2位・・・ということで当時の国内最高パフォーマンスと日本人国内最高パフォーマンスの優勝争いだったということになります。ぜひとも早田選手に優勝して欲しかったですが、1994年アジア大会ではバルセロナ五輪の金メダリスト・黄永祚選手についで2位、という経験をされていますし、ご存知シドニー五輪金メダリスト、G・アベラ選手も含め「五輪金メダリスト」というのは「優勝争いに非常に強い」のは確かなようです。

「35キロまでの男」と酷評を受けていた早田選手は35kmから40Kmまでの5Kmを(15分07秒)と参加選手中、最速のラップタイムを刻まれました。競り合っていた佐保選手を置き去りにし、先頭を走るチュグワネ選手の背中を見据え、無心で走る早田選手に失速は訪れませんでした。過去、失速を繰り返し、嘔吐までされた辛く厳しい福岡国際終盤のロードに、雨中に響く自身の足音のみが心地よく響き渡ります・・・そのまなざしと風貌は、獲物を狙う「ハンター」ではなくマラソン開眼を願う一人の「マラソン少年」のような印象でした。

2003年8月17日 ろっく
総評

早田俊幸選手
総評
駅伝、マラソンでの早田選手

「ハンター」の異名の称号を語られるほど駅伝の名手。98年九州一周駅伝合宿の時、夕食のテーブルでご一緒させていただいた、今年2月亡くなられた山口県陸上競技連盟会長・故・貞永信義さんが、総監督として九州一周駅伝、監督車から早田選手の走りをご覧になった時の感想を次のように述べられておられました。「早田は目の前に中継所があるかのように向かってくるんだよ・・・中継所が近くなりスパートしているのかとこちらも確認してみたが、まだ中間点くらいだった・・・こんなに飛ばして大丈夫か!?」と見ていたものだよ、と話してくださいました。「ほっほっほっ・・・」と笑みを浮かべ早田選手の勇姿を思い浮かべておられた貞永さんのお話は今も記憶に残っています。もちろん各駅伝やロードレースで実際に早田選手の躍動感溢れる激走シーンをご覧になった沿道のファンの皆さんも、「ペースを間違えているんじゃあないか!?」というほど迫力の、早田選手の“走りの感動”を記憶されていることと思います。

早田選手に関する「速すぎたランナー」という本を読みました。「アラコ」に移籍後第一戦の97年福岡国際マラソンで(2時間08分07秒)の当時(国内日本人最高、現役最高、福岡国際日本人最高)記録を樹立した早田選手はそれでも自己の求めるマラソンスタイルを達成するイメージとは遠く、悩みを深めたように書かれていました。トラックや駅伝でスピードを全開にして得られるような陶酔感が、意図的にスピードを抑えるマラソンでは得られないといった内容でした。「30k、35kまでの男」と酷評を受けた「早田選手のマラソン」ですが92年初マラソン(2時間10分37秒)、94年アジア大会銀メダル(2時間11分57秒)、97年上記の福岡国際の活躍を遂げておられます。トラック・駅伝での大活躍で注目を集めていた状態での五輪代表選考会、失敗レースの印象があまりにも強かったと思います。90年代、常にマークされる存在であり、トップを期待されたスーパースターでした。

ナンバーWEB 増田晶文氏
http://www.number.ne.jp/columns_part2/2002.07.11/book_hunting.html


2003年7月21日 ろっく