2002.11.12yol山口
沈没帆船小船で浮上


遠望細見
喜右衛門
村井喜右衛門
1725―1804。弟亀次郎
(1758―1835)と共に
東シナ海でとれるイワシなど
を扱い、1年のうち、漁期の
9か月を香焼町で過ごした。
商人・村井喜右衛門


 江戸時代、東シナ海産の海産物取引で財を成した商人、村井喜右衛門。長崎沖に沈んだオランダ船を引き揚げた功績で知られるが、肝心の出身地・山口県徳山市での知名度はイマイチ。“ならば”と喜右衛門売り込みに奔走する後人が故郷に現われた。
    ☆   ☆    

 地域おこしグループ「華雲塾」メンバー、浜田心仁さん(38)。「200年以上も前、ビッグプロジェクトを手掛けたのが、地元の人だったなんて。素晴らしい。もっと名前を広めなきゃ」。喜右衛門への思いをこう語る浜田さんは今春、商いの拠点だった長崎県香焼町を訪ねた。
    ☆   ☆    

 驚きだった。郷里では、ほとんど取り上げられていない喜右衛門が、この町では“偉人”だった。紙芝居や人形劇になり、町図書館刊行の民話集「香焼の昔ばなし」にも収録。町勢要覧には特集記事もある。
 「喜右衛門は頭が良く人望もあった。魅力は尽きません」。同図書館司書の坂井淳さん(55)は話す。

潮の干満と力学応用引き揚げ


浜田
香焼町の写真を示す浜田さん
模型
引き揚げを再現した模型
(徳山市立中央図書館所蔵)
 でも、当時は、クレーンも動力もなかった。そんな時代に、大きな帆船をどうやって引き揚げたのか―。
    ☆   ☆    
 オランダ商船「エリザ号」が、インドネシアに向け、長崎を出発したのは1798年10月17日。直後に天候が急変し、長崎湾の出口付近で座礁した。港の沖合まで曳航したが、浸水がひどく、水深約10mの海底に沈没した。エリザ号は全長42m。沈んでもなお、船体の一部を海面にのぞかせていた。
 貴重な銅としょうのうを満載。オランダ側に要請を受けた長崎奉行の呼びかけで、地元の人が引き揚げようとしたが、失敗。死者も出た。そこへ手を挙げた喜右衛門。奉行は「よそ者には任せられん」といったんは断わったが、喜右衛門は「費用はすべて持つ」と約束。引き揚げを認められた。
    ☆   ☆    
 干潮時、沈没船に綱を巻き付け、それぞれの先端を海に立てた支柱を通し、両脇に並んだ計76隻の小舟と結んだ。大小900個の滑車を使い、満ち潮で小舟が浮くと沈没船も浮くような仕掛け。エリザ号は2日かけて浮き上がった。潮の干満と力学を応用したアイデアだった。喜右衛門は長崎奉行から銀30枚を贈られ、毛利藩からは名字帯刀を許された。


故郷・徳山で「偉人」再認識

    ☆   ☆    
 浜田さんらは、喜右衛門にちなんだ紙芝居づくりのほか、企画展を開催。地元のアマチュア劇団も芝居の題材にするなど、郷里での輪は広がりつつある。
 「若い世代が、ご先祖を後押ししてくれるとはありがたい」。生誕地近くで暮らす、喜右衛門の弟、亀次郎の子孫、村井洋一さん(55)は喜ぶ。
 徳山の“偉人伝”に新たなページが書き込まれる日は来るか―。

村井喜右衛門