村井喜右衛門(1752〜1804)
喜右衛門は、大変利口で穏やかな性格で、乱暴な振る舞いがあって争うようなことはなかった。 人々の中では、愚昧ではないかと思った人もいたようだが、事に当たってはあくまでも沈着で冷静だったそうである。 喜右衛門は、12才のころから、父と兄に従って九州まで往来するようになった。 成人して、自ら船を求めて家業を始め、弟の亀次郎、音右衛門を連れ、遠く長崎に出かけて活躍していた。 現在の長崎県西彼杵郡香焼町の栗ノ浦を漁業基地として、そこに住み込み鰯漁をしていた。 栗ノ浦には防州からたくさんの人が来ていたようである。 1798年、長崎に来泊していた米国船籍のオランダ船エリザ号が、座礁沈没した折、オランダ人の手ではこの船を浮揚することは容易ではなく、奉行所に引き上げを依頼してきた。 奉行は土地の者に引き上げを命じ、数名によって試みたが、いずれも失敗に終わった。 丁度その時、鰯漁で香焼島にいた喜右衛門が、浮かし方を申し出て、奉行は喜右衛門に引き揚げを命じた。 喜右衛門は私財600両を投じて、エリザ号引き揚げを成功させ、その話は欧米に広まった。 その功績あって、長崎奉行より銀30枚の他、オランダ商館よりフラスコ、砂糖が送られ、望んで阿蘭陀帽子と煙管を頂いた。 毛利家よりも永世苗字帯刀が許された。 |
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