| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1600慶長5年 | 4月19日 九州豊後の臼杵湾佐志生村沖にオランダ帆船デリーフデ号漂着す 現在の大分県臼杵市佐志生の黒島海岸付近、これが日蘭交流の始まりである 9月15日天下分け目の関ケ原の合戦行われる |
| 1602慶長7年 | オランダ東インド会社設立さる |
| 1609慶長14年 | 国書を持った2隻のオランダ船が来航し正式な国交が結ばれる 平戸にオランダ商館を開設する |
| 1637寛永14年 | 〜1638寛永15年 島原の乱 |
| 1639寛永16年 | 家光5回目の鎖国令をだし鎖国を完成す |
| 1641寛永18年 | オランダ商館を平戸から長崎出島へ移転する |
| 1696元禄9年 | 喜右衛門の大叔父山本市兵衛生まれる |
| 1711正徳元年 | 山本市兵衛船乗りとなる |
| 1719享保4年 | 山本市兵衛 白石島開龍寺弘法大師堂霊窟へ籠る(岡山県笠岡市白石島) |
| 1741寛保元年 | 防長地下上申の櫛ケ浜船数の部に記述、37艘のいさば(小型廻船)年分九州表(長崎) へ罷り越し諸商売仕り候、漁船45艘の内九州五島にて、いわし漁仕る分もあり |
| 1752宝暦2年 | 喜右衛門生まれる |
| 1756宝暦6年 | 5月6日 山本市兵衛逝去60歳 |
| 1758宝暦8年 | 喜右衛門弟、亀次郎生まれる |
| 1764明和元年 | 8月 喜右衛門12才で父と兄について船で九州へ行く |
| 1765明和2年 | 8月 喜右衛門13才玄界灘で船の進路を判断する、前年から九州に共に行くようになっ た喜右衛門は今回玄界灘を航行中日が暮れ船人達が海路が分からなくなった時自ら方角 を定めて無事肥前の呼子港に入ることができたという |
| 1770明和7年 | 喜右衛門18才の頃自家立船を造り廻船業独立す、山本から父の本姓村井へ変える |
| 1775安永4年 | 喜右衛門の父、弥兵衛没 |
| 1779安永8年 | 喜右衛門香焼島へ進出、いわし漁指導奨励 |
| 1783天明3年 | 9月13日 村井酒場開基村井芳榮市左衛門自笑生まれる 亀次郎妻の実家櫛ケ浜村庄屋濱田福松の次男、のちに亀次郎の養子となる しばらくして香焼島で亀次郎に実子ができたので1798寛政10年分家独立村井酒場創業 当時市左衛門15才、喜右衛門等のバックアップが大いにあったといわれる 亀次郎は香焼島に行きっぱなしで喜右衛門も櫛ケ浜を留守にする期間が多かったので 櫛ケ浜の村井の面倒を見させるため、酒場を興すことは元々喜右衛門等の懸案であった |
| 1787天明7年 | 2月14日 香焼島唐ノ船墓地に防州都濃郡櫛ケ浜の笠戸屋徳兵衛墓碑(現存花崗岩徳山 みかげ石と推定笠戸屋の姓は松田・船大工) |
| 1791寛政3年 | 4月 香焼島栗ノ浦墓地に防州櫛ケ浜住人の墓碑(無名お地蔵様造り・花崗岩) |
| 1795寛政7年 | 6月 防州遠石八幡宮へ石燈籠寄進奉献村井屋喜右衛門、亀次郎(2基現存) |
| 1796寛政8年 | 9月29日 喜右衛門弟音右衛門没29才長崎市深堀町円城寺墓地と原江寺に墓石あり超大 型、碑文瑞雲院蛍巖浄光居士防州櫛浜村井音右衛門信道 智10人にすぐれ商事利口なりといわれた、独身 |
| 1797寛政9年 | 6月27日エリザ号長崎初入港 某月 喜右衛門母おきよ没 |
| 1798寛政10年 |
防州都濃郡櫛ヶ浜村 村井酒場(市左衛門・後の村井酒造株式会社)創業す 3月6日 長崎出島焼失、出島は大火災が起って花園の中のカピタン住宅及び2、 3の古い倉庫の外総ての建物は皆焼失した、蘭人としては下級手代のレオポルト・ウイ レム・ラス氏が書記として臨時館務を管掌しその他助手2人医師1人水夫2人いるのみ |